想い出の座間 戦後編

ページ番号1012469  更新日 令和7年9月16日

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「想い出の座間」は、書籍の「目で見る座間」をホームページに忠実に反映することを基本にしております。今回は、前回の「軍事施設」に続き、「戦後」にまつわるコンテンツを紹介します。
内容は、街角、20年代、30年代、開発直前の風景、開発の波・工場進出、歴代の村町市長に関する写真とコメントになります。

ダイジェスト版

全体は添付ファイルに掲載しています。内容は、街角、20年代、30年代、開発直前の風景、開発の波・工場進出、歴代の村町市長に関する写真とコメントになります。

アメリカ軍の進駐
戦後の座間は、アメリカ軍の進駐と農地改革で始まる。しかし、何と言っても農村という住民の生活基盤を根底から崩したのは、高度経済成長の波であり、この座間に人口の急増を伴う土地開発をもたらした。ここでは、終戦から開発の始まる30年代までの懐かしいアルバムを紹介する。
写真は、相武台前駅売店でのアメリカ兵(昭和30年ごろ)
紙芝居
紙芝居 (昭和30年5月)
ラジオ体操
ラジオ体操 (昭和35年ごろ)
座間は相模原町から分離·独立
分町 昭和23年9月1日、座間は相模原町から分離·独立する。翌月1日の選挙では稲垣俊夫氏が町長に当選する。写真は昭和27年、三役及び議員の任期満了の記念。
公民館
公民館の棟上式(昭和28年)。当時、周囲はまだ田んぼで、道路も未舗装であった。
座間球場
座間球場の完成 球場の建設は野球連盟加盟のチームや関係者の勤労奉仕により、昭和26年8月に完成した。
栗原中下の地神塔
栗原中下の地神塔(昭和40年ごろ)
昭和30年代半ばに始まった高度経済成長の波は、工場進出、宅地開発をもたらし近世以来連綿と続いてきた牧歌的な座間の農村風景を一変させてさせてしまった。
立野台を望む
天台よりの遠望 天台線の天台切通しより立野台を望む。昭和33年。
座間小学校周辺
座間小学校周辺 中央やや上を通る道路が八王子街道。
手前が入谷の長宿、遠方が右より座間の下宿·河原宿。 昭和40年10月。
日産座間工場
日産座間工場の開設 座間最大の工場の進出。昭和39年。

以上はダイジェストとして掲載したものです。全体については以下の添付ファイルをご覧下さい。

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