キャンプ座間
キャンプ座間の沿革
陸軍士官学校の移転と座間町
日本陸軍の計画によって、昭和12年に建設された士官学校は座間町、新磯村(現在の相模原市の一部)に設置され、同時に関連施設として、練兵場も麻溝地域に建設された。そして、同年9月30日に明治初期から東京市ヶ谷にあった陸軍士官学校本科が座間へ、陸軍予科士官学校が朝霞へ移転するところとなった。
昭和16年12月、ハワイ諸島の米海軍基地「真珠湾」への進攻によって対米英両国に対し宣戦布告され、第2次世界大戦へと突入して行った。そして幾多の激戦を重ねた後、昭和20年8月、米軍による新型爆弾が広島と長崎に投下され、日本は決定的な衝撃を受けた。同年8月15日正午、天皇陛下自ら朗読する「ポツダム宣言受諾に関する大詔」が全国に放送され、長期にわたった戦いが終息された。
昭和20年9月、終戦によって国内の軍施設は進駐した米軍に接収され、当地の陸軍士官学校を含め近隣の軍施設が全て9月20日以降武装解除と共に接収され、進駐軍の統治下となり、旧日本軍施設は「基地」へと変貌し、今日の基地行政対応の出発点となった。
在日米陸軍司令部の設置
旧日本陸軍士官学校として使用されていた用地は、終戦後間もない昭和20年9月2日、調達要求書によって同月5日、師団長キング少将の率いる米陸軍第1騎兵師団が進駐し、第4兵站廠として使用するところとなった。そして、昭和25年6月、米陸軍第8軍司令部が設置され、施設名を「キャンプ座間」と呼ぶようになった。当時、近隣の旧日本海軍航空基地であった「厚木キャンプ」(現在の厚木基地)と共に、主として極東各地に往来する米陸軍部隊が船待ちをする一時的駐留基地となった。
昭和32年7月、西太平洋・極東にいたる米陸軍の指揮・命令を統括する在日米陸軍司令部と基地司令部が設置された。その後、昭和44年9月に在日米陸軍の機構改革によって基地司令部は廃止されて在日米陸軍関東地区司令部と組織が改革され、昭和48年に在日米陸軍の主要部隊として本州駐屯部隊が発足し、昭和50年には太平洋地区米陸軍司令部の廃止に伴い、陸軍省司令部直下主要陸軍司令部となった。それ以後、現在に至るまで組織変更が行われており、平成19年12月に第一軍団(前方)司令部が発足し、第一軍団(前方)・在日米陸軍司令部となった。
キャンプ座間の概要
- 名称
- キャンプ座間(FAC3079)
- 所在地
- 座間市座間 相模原市磯部・新戸
- 面積
- 2,292,266 平方メートル
- 座間市分 566,832 平方メートル (全体の約25%)
- 相模原市分 1,725,434 平方メートル
- 接収年月日
- 昭和20年9月2日
- 主な施設
- 事務所(在日米陸軍司令部施設他)
陸上自衛隊施設(第4施設群隊舎他)
公共施設 厚生施設 スポーツ施設 住宅施設 - 配属部隊
-
在日米陸軍
- 在日米陸軍司令部
- 第一軍団(前方)司令部
- 在日米陸軍基地管理本部他
陸上自衛隊
- 陸上自衛隊第4施設群
- 陸上総隊司令部日米共同部他
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