令和6年度(7月)第1回企画展示実施報告

ページ番号1010774  更新日 令和6年12月6日

印刷大きな文字で印刷

「古文書が語る座間の砂利運搬~昭和九年(1934)の相模川行き通り改修を考える~」

写真:第2回企画展示会「古文書が語る座間の砂利運搬-昭和九年(1934)の相模川行き通り改修を考える-」のポスター

令和6年7月12日(金曜日)~29日(月曜日)に、大正・昭和前期の相模川河岸で行われた砂利採取・運搬事業に関する展示会を開催しました。
新田宿の人びとと小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)との共同事業として行われたこの出来事の詳細は、多数の古文書や地図に残されており、企画展では、昭和9年に行われた相模川行き通り(新田宿諏訪明神社前を通る)の道路改修に焦点をあてて両者のやり取りを掘り下げました。

第1章 「昭和9年の砂利採取契約」

砂利の運搬経路
砂利運搬の経路

昭和9年、座間村新田宿の住民は東京の事業者・石川滝雄と砂利採取の契約を結びました。この契約の延長線上に、小田急と新田宿住民との間で砂利の運搬契約が結ばれ、河原付近から新座間駅(現・小田急線座間駅)までのトラック輸送が始まったのです。

この背景には、大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けた首都東京を中心としたコンクリート需要の増大があり、コンクリートの主成分であった砂利の採掘は新興産業として盛んに行われていたのです。

 

第2章 「昭和9年の相模川行き通り改修」

青写真2

昭和9年6月、座間村新田宿は小田急と石川に対して、相模川行き通りの拡張工事を要求します。この工事は、わずか「9尺(2.7メートル)」であった道路幅を拡げ、円滑なトラック輸送を実現することを目的としていました。この要求をうけて、「新田宿窪河原堤塘拡張道路平面図」(上記写真、通称「青地図」)にもとづく工事が実施され、翌昭和10年には道路改修記念碑(諏訪明神に現存)の設置にこぎつけました。

会場アンケートQ&A

多くのご質問をいただき感謝申し上げます。なお、現時点の研究段階で回答が困難なご質問につきましては、回答を差し控えさせていただいております。

Q1 相模川行き通りの終点である中島堤塘(堤防)は、いつからあったのでしょうか?

A1 安政6年(1859)から存在が確認できます。当時の地図には、「古堤」と記載されています。かなり前からあったものとみられます。具体的には不明ですが、近世中期あたりまで遡ることができるかもしれません。

Q2 なぜ中島堤塘と相模川沿岸の間が空いているのですか?

A2 中島堤塘と相模川沿岸は、100メートルほど離れていますが、昭和9年時点でその間には中島堤塘とは別に二つの堤塘がありました。相模川沿岸にあった堤塘は、史料上では「護岸堤」と記載されています。これが現在の相模川沿岸の堤防と考えられます。そして、中島堤塘と護岸堤の間には、古川堤塘がありました。現在は流れていませんが、そこには相模川の支流が流れていました。これに沿って古川堤塘は築堤されていたと推測されます。

よって昭和9年時点で、中島堤塘と相模川沿岸の間にはまったく何もなかったわけではなく、中島堤塘とは別の堤塘が存在したと考えられます。ただし、一番早くできたのは、中島堤塘であり、その当時は相模川沿岸との間に堤塘はなく、耕作地(田畑)が広がっていたと考えられます。しかし、相模川の洪水によって耕作地は打撃を受け、荒廃することが多かったという史料が残っています。史料上では近世から近代にかけ、水害が何度も生じ、そのたびにこれらの耕作地は打撃を受けていたといえるでしょう。

当該地区の平面図を以下に掲げました。

 

拡張道路平面図
新田宿窪河原・堤塘間拡張道路平面図(座間市加藤氏旧蔵文書)に加筆

Q3 どこで砂利採取していたのでしょうか?

A3 砂利採取を行う際、神奈川県から許可証が出されます。その許可証に採取場所が詳しく明記されています。それを見る限り、護岸堤の堤内地にあたる河原で採取されていたことが分かります。川が流れている部分やその付近で採取することもありました。

Q4 当時の相模川行き通りは、舗装されていたのでしょうか?

A4
昭和9年時点で相模川行き通りは、舗装されておらず、砂利道であったことが想定されます。
根拠は以下の通りです。

  1. 昭和9年の道路改修では、あくまでも道路幅の拡張を主眼としています。改修計画に関連する史料のなかに、舗装計画は記述されていません。
    つまり、舗装の計画はなく、砂利道として改修しようとしていたことが想定されます。
  2. 昭和9年より前に、相模川行き通りの道路改修に関する史料は現時点で確認ができません。
    よって、昭和9年の改修が初めての本格的な改修であった可能性があります。
  3. 翌年の昭和10年に雨天では諏訪明神前の道路から泥が飛び散っていたと記述する史料があります。
    ここから、砂利道が水分を溜めて泥となり、車の往来によって、泥が飛び散っていたことが想定されます。
  4. 昭和11年に諏訪明神前のコンクリート舗装が予定されています。よって、この頃から諏訪明神前のみ舗装が計画をされていたことが分かります。
    おそらくこれが相模川行き通り最初の舗装計画になるのではないかと考えています。

このページに関するお問い合わせ

生涯学習課 文化財担当
〒252-8566 座間市緑ケ丘一丁目1番1号
電話番号:046-252-8431 ファクス番号:046-252-4311
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。