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市指定重要文化財(天然記念物、無形文化財)

2014年12月12日更新

★市指定重要文化財(天然記念物)

咲き分け散り椿(さきわけちりつばき)

写真:咲き分け散り椿 
  • 推定樹齢:約30年
  • 所在地:星谷寺
  • 指定年月日:昭和40年5月10日


 花は純白・紅白に白の斑入模様・淡紅(たんこう・あわべに)濃紅(のうこう・こいくれない)・白色に紅の斑入模様と五通りに咲くので「咲き分け」と呼ばれていますが、紅白の斑入模様と濃紅のものが多く、紅白の割合は年によって異なります。また、椿の花弁はひとかたまりで散るのが普通ですが、この木は一枚ずつ散ります。寺伝では「椿寺」として知られる京都・地蔵院から移植したといわれていますが、一種の変種です。
 なお、現在のものは二代目で、星谷寺(しょうこくじ)で一代目(推定樹齢200年余 近年枯死)の木から後継苗を育成したものです。

 

大欅(おおけやき)

写真:大欅 
  • 推定樹齢:約300年
  • 所在地:護王姫社
  • 指定年月日:昭和42年5月11日


 安産の神様として昔から近郷・近在の人たちを中心に篤く信仰されてきた護王姫(ごおう(の)ひめ)社(祭神 護王姫大明神)の境内にあり、現在市内における最大最古の大木です。

 

◆桑 普通十文字種(ふつうじゅうもんじしゅ)

写真:桑普通十文字種 
  • 推定樹齢:約10年
  • 所在地:個人宅地内
  • 指定年月日:昭和44年6月24日


 元の木は百数十年の間、その姿を保っていましたが近年枯死し、現在のものは原木から分かれた二世です。
 明治時代、養蚕業は座間村の最も重要な産業で、市域東方の村々の秣場(まぐさば)(共有地)が各戸に平等に分割された後に桑園が盛んに作られました。
 明治40年代には群馬県、長野県などから取り寄せていた蚕種を自ら製造をする家もあらわれ、最盛期には10軒に近い養蚕家がこれに従事しました。
 養蚕は苦労の多い仕事ですがお金が手に入りやすく、大正時代には村を大いに潤しましたが、昭和初期の人造絹糸(レーヨン)の発明や世界恐慌、国内の不況などで生糸の価格が暴落すると大打撃をうけました。
 そして、昭和12年の陸軍士官学校の移転に際し、村に近い桑園も学校用地として買収されたため養蚕業はたいへん衰退してしまいました。

 

肉桂(にっけい)

写真:肉桂
  • 推定樹齢:約110年
  • 所在地:西栗原
  • 指定年月日:昭和49年1月17日


 俗に「ニッキ」と称されるクスノキ科の植物です。枝葉が繁茂し樹勢も極めて旺盛です。
 樹木の各部分に芳香・辛味を有し薬用としても用いられました。また、細根は赤い紙などで巻かれ、縁日や駄菓子屋などでくじの景品として子ども達に人気がありました。
 そのため、この木も若木の頃は細根を盗掘され一時は成長が鈍るほどであったそうです。

 

白樫(しらかし)

写真:白樫
  • 推定樹齢:約500年
  • 所在地:栗原神社
  • 指定年月日:昭和53年12月23日


 シラカシはブナ科の常緑広葉樹で、関東地方のローム台地上の代表的な樹木の一つです。
 市内でも各所に見られ、かつては「樫の森」と呼ばれたほど鈴鹿明神社境内はシラカシが繁茂していましたが、近年では他の地域と同様に開発や環境の変化などで、多くはその姿を消してしまいました。
 指定のシラカシはそれらの中から残った唯一の大木で、おそらくかつての栗原神社の「樫の森」をしのばせる貴重なものといえます。

 

◆椿(つばき)

・推定樹齢:約330年
・所在地:座間市栗原
・指定年月日:平成24年11月19日

 樹高が約8.5m、幹の直径が約64cmの巨木で、言い伝えによれば、祖先がこの地に移住した時、かつての居住地より苗木を運び移植したものといわれています。
 目久尻川左岸の栗原の古道に沿う大きな木なので、花どきにはたくさんの赤い花を咲かせます。

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 ★市指定重要文化財(無形文化財)

祭囃子(まつりばやし)『かまくら』『やたい』

写真:
平成18年新春たたき初め大会にて
  • 成立年代:明治35年(1902年)ごろ
  • 所在地:南栗原
  • 指定年月日:昭和43年3月27日


 この祭囃子の二曲は明治35年(1902年)頃、早川村(現在の綾瀬市早川)から伝えられたといわれ、激しい修練を重ねて現在まで伝えられてきました。
 大正・昭和時代の社会変化の中で青年たちへの伝承がいく度も途絶えそうになりましたが、戦後、修練した人達が「若音会(わかねかい)」という保存会を結成し後継者の養成をおこない祭囃子の技を若者たちへと伝えています。

 

座間歌舞伎(ざまかぶき)

写真:
平成18年の入谷歌舞伎公演
  • 所在地:入谷、緑ヶ丘
  • 指定年月日:昭和46年年3月30日


 江戸時代になると様々な庶民の娯楽が隆盛し、座間でも元文4年(1739年)に書かれた座間宿村名主の日記の中にも操り人形の興行や三味線修理のことが記されていることから、このころすでに地方の村々にも流入していたことがわかります。さらには、農閑期には師匠を招いて義太夫節や歌舞伎芝居を稽古・上演するものもあらわれ、明治時代まで続きました。
 そうした動きの中で、義太夫を愛好する人たちはすでに文政(1818~1830年)年間に義太夫連を発足させ、明治末年までその活動は続きました。
 素人の歌舞伎芝居は地芝居(じしばい)と呼ばれて、江戸時代末期よりしばしば上演されていました。座間にはそのほか、明治初期には人形芝居の一座もありました。
 職業的なものとしては、明治20年頃、座間上宿の菊田仁左衛門が東京から招いた歌舞伎役者も加えて菊田座を創設し、各地を巡業して歩きました。太神楽の「蛭間座」や新田宿の「本田弥助座」も明治中期以降その芸を伝えていましたが、両座とも昭和20年代頃から衰退してしまいました。
 その後、歌舞伎の芸に携わる人たちは入谷地区を中心に「入谷歌舞伎会」を結成し地芝居の伝統を伝え、義太夫の流れを汲む浄瑠璃の芸に携わる人たちは、「寿会」をつくり、昭和46年に合同して、「座間歌舞伎会」を組織して古典芸能の保存につとめてきましたが、昭和58年の公演を最後に活動を停止しました。
 しかし、地芝居部門については平成8年(1996年)に地元入谷地区の人々が中心となって「入谷歌舞伎会」を再び結成し公演活動などを行っています。また、「寿会」については「座間淨曲同好会」として「あつぎ ひがし座」などの人形浄瑠璃団体とともに活動しています。
 これらのことから現在は、「座間歌舞伎」としての活動はなされていませんが、郷土の芸能を伝承するために両団体は日々研鑽を続けています。

 

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